「老人の死」の解釈

たまにこんなテーマもいいでしょう。

 

 

ある患者さんが心労で来られました。

親類のお年寄りが亡くなって、悲しみで元気が出ないとの事。

 

 

まあ「この年なら十分」という年齢は人それぞれだし、

希望の寿命が操作できるものでもありません。

いずれは私の身内もあの世に行きますし、私もいつかはあちらに行くことになるでしょう。

今のところ、この世に生きている者は皆、例外なくあっちの世界に行く事になっています。

いくら医療が発達したとしても。

 

 

 

一昔前はほとんどの老人の死因は「老衰」で大往生と言われていました。

往生と言うのは仏教用語で「この世で死んで、あの世で生き返る」。

つまり成仏(仏になる)することを意味するようです。

 

それが最近では医学の研究が目覚しく、色々な病気が究明されてきました。

よって死因も詳細に解るようになり、ほとんどの死に死因(病名)が付くようになりました。

いわゆる「ピンコロ(ピンピンしててコロッと逝く)」でもでしょう。

この患者さんは「親類の死」が悲しいのと同時に「病名への恐れ」があるようでした。

 

「老衰で大往生」と聞くと悲しくも喜ばしいように聞こえますが、病名が付くとただ悲しい。

(若者は別として)死とはごく自然な事なのですが、病は身体が異常だと言う意味です。

解ったほうがメリットも大きいですが、解らない方が良い時もあるようです。

後戻りのできない進歩ですから、これはどうしようもないのかも知れませんね。

 

 

 

「死」は誰にでも例外なく訪れるものです。

純粋に「死だけを悲しむ」のは当たり前の姿でしょうが、病名を恐れたくないものです。